余ったお金がさらに集まる「富の一極集中」が先進国を疲弊させている

経済まとめ
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 「金余り」ということが言われて久しいが、筆者の周辺でよく聞くのは 

「金余りっていうけど、私のところには全然やってこないよ!いったいどこに行っているの?」
という話である。

 たしかに、「上場企業が空前の利益を稼ぎ出し、内部留保が記録的な金額になっている」とか、日本銀行が「異次元緩和で、ほぼ無尽蔵の資金供給をしている」などというニュースを聞くと、「自分のところにも『おこぼれ』がやってこないかな……」と思うのが人情だが、それは世間の大多数に人々に対しては起こらない。
なぜかといえば、大量に供給された資金は、現在の環境においては、広く浅くばら撒かれるのではなく、特定の人々(組織)に集中するからである。
この特定の人々というのは、簡単に言えば「すでに多額のお金を持っている人びと」である。

 「お金は寂しがり屋だから、たくさんの仲間がいるところに行きたがり、仲間の少ないところからは遠ざかる」という言葉は、言い得て妙だし、歴史的事実でもある。
現在世界・日本の経済で起こっていることは、その歴史的事実を凌駕する「ス―パー・一極集中」だといえよう。

 もちろん、現在の先進資本主義国が繁栄しているのは、「資本主義の自由競争の中でお互いに切磋琢磨し、技術やノウハウを向上させてきた」からにほかならない。だから、勝者がその努力と能力に応じて富を得ることは何ら問題ない。
実際筆者も、フリードリヒ・ハイエク(1974年ノーベル経済学賞受賞)やミルトン・フリードマン(1976年ノーベル経済学賞受章)と同じ「自由主義」(リバタリアン)である(ちなみに、この「自由主義」は、共産主義・左翼に背乗りされた「リベラル」とは何の関係もない)。

 しかし「資本主義・自由主義」だからと言って、何もかもが自由だというわけではない。
1690年に市民政府論を著したジョン・ロックは、「他人に殺されない自由」は「自由の重要な要素」であり、そのためには「他人に自分を殺させないための政府」、つまり警察や軍隊は必要不可欠であり、また法律による制限も「自由」を守るために必須だと述べている。
また、現在のすべての経済学の源流である「国富論」(筆者論文:「『国富論』と『道徳感情論』に還る」【経済学ルネサンス】参照)を1776年に発刊したアダム・スミスは、「商工業者の徒党による独占」=カルテルを政府は排除すべきだと述べている。

 「自由」を尊重するためには「公益」を守る必要があり、そのためには政府の政策や法律は必要不可欠であるということである。
わかりやすい例で言えば、前述のカルテルである。カルテルを組んで市場を独占するような企業も、最初は小さなベンチャーから生まれる。GAFAが典型例であろう。
残念ながら、自由競争でのし上がった企業も、巨大化し市場を独占すると、新たなベンチャーの成長や新規参入を邪魔するようになり、社会に大きな弊害をもたらす。
日本の独占禁止法や米国の反トラスト法は、そのような弊害を取り除くためのものである。

以下ソース
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67676


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Source: Investment News
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